2015.11.24 北尾トロ記(下関マグロ、竜超)
京王線東府中駅を午後0時半ごろ出発し、JR武蔵小金井駅で解散したのが午後4時過ぎ。歩数計は1万歩を超えた。この日の行動については他メンバーの記録と重なるので、そちらを読んでもらえるとありがたい。
どうして東府中にきたかというと、北口駅前の「スンガリー飯店」が元気にやっているかどうか確かめたかったからだ。ここには3年ほど前に入ったことがある。そのときはMCT活動も始まっていなかったが、不思議な店名が気になった。
じつはこれ、川の名前。中国の東北地方を流れ、ロシアに入ってアムール川に合流する全長2千キロ近い大河で、スンガリーはロシア語読み。中国名は松花江(しょうかこう)。ちなみにアムール川は黒竜江だ。
同名のロシア料理店もあるが、ここは町中華。満州由来のネーミングが、ロシア料理、中華料理に使われていると考えてると面白い。
かなり年期が入っている。ビルの古さであるとか看板、ドアの感じ、サンプル棚の埃の溜まり具合、内装。いいね、申し分のない古さだ。外観から見積もって30年じゃきかない。40年でも驚かない。サイズも大きく、2階もあるようだ。ビルの壁にはでっかくこう書かれている。
<スンガリーでお食事を。御宴会、御商談、御食事はお二階で>
単品メニューも豊富なことから、もともとは本格中華の店だったと推測される。かつて本格派だった店が何らかの事情で庶民派路線を取り、定食やセットメニュー中心の営業に変化するのはよくある話で、ぼくはその手の店を”降りてきた派”と呼んでいる。
スンガリー飯店はどういう経緯でここに居を構えたのだろう。店で聞くのが早いと思われるかもしれないが、そんなことはいつでもできるじゃないですか。「いつからですか?」「 もう○年になります」「なぜ東府中で」「手頃な物件あったんで」。最短でそれだけの会話だ。事実なんてそんなもんだ。
もちろん最終的には知りたいし、訊かなければならないのだけど、ぼくにとって最重要ではない。
ついでに言うと味もさほど重視してない。この点に関してはMCT内でも意見の分かれるところで、それぞれの優先順位は違っている。外観、店主、味、看板料理、歴史、オリジナルメニュー、町の雰囲気などなど、語るポイントは多岐にわたるのが町中華探検の醍醐味だ。
ぼくの主たる興味は2度の東京オリンピックの間に町中華がどのような経緯をたどってきたかにある。隆盛を極めた食文化のひとつが、社会情勢を反映するように超高齢化の波にさらされ、急速に衰退しつつあることをふまえ、町中華の2020年モンダイを自分なりに調べていきたい。だから味の良し悪しは二の次。めっちゃまずかったとしても気にしない。まずいのに支持され、生き残ってきた理由を考えてしまう。
スンガリー飯店の100メートルほど先には2軒の食堂が並んでいる。そのうちのひとつはいかにも昔ながらの形態のようだ。航空自衛隊府中基地へと続く道路に、他には大して目立つ店がない。東府中というのは、ここを起点に1駅区間だけ走る府中競馬場への乗換駅で、隣にある府中駅のオマケみたいなところだった。ぼくは高校時代から10代の終わりにかけて沿線に住んでいたが、東府中で降りるのは競馬場に行くときだけ。競馬場側はポツポツ店があったけれど、基地のある北口は閑散としていた。
いまはマンションだらけでベッドタウン化しているようだが、昔の名残は食堂の先にもあった。マンションの狭間にソープランドとホテルが建っているのだ。いかにも唐突な印象だが、建物を見るとソープやホテルの方が古い。なぜこんな住宅地に、と考えるとわからなくなるけど、競馬場の客と自衛隊員を当て込んだと考えれば、好立地なのかもしれない。
府中基地は戦前、陸軍が使い、戦後は米軍が進駐。昭和32年(1957)からは自衛隊との共同使用となり、昭和50年(1975)に米軍が横田に移転した後は、航空自衛隊府中基地として使われている。
たぶん、その頃はマンションなど数えるほどしかなかったことだろう。たぶん民家が建っていて、そのうちソープができた。自衛隊の中には食事施設があるはずだから、食堂は地元客でにぎわったんだろうか。このあたり、ちょっと入ると住宅地ばかりなのだ。
70年代以降、中華はスンガリーの独壇場だったわけではないだろうが、現存するのはここだけ。もう1軒あるとの情報を得ていたが、閉店していた。
自衛隊基地を核に人口増加が始まった東府中。1975年以降の40年間に、どれだけの店がオープンし、消えていったことだろう。駅前にはファミレスもできた。そんな中、2軒の食堂が残っているのは称賛に価すると思う。
町中華をやる上で、食堂文化の研究は欠かせない。レトロ食堂みたいな扱いで取り上げられるのを見るたびに、まるで町中華の未来を見せられている感じがしてしまうからだ。